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自分が父から教わったことを、子供にも伝えていきたい。/玉木洋平

2015.11.16

玉木洋平(別名タマキング洋平)

1972年10月6日生まれ 43歳

 

<藤沢の丸井でサーファー艇を購入!>

神奈川県の鎌倉市にある鎌倉山で生まれ、物心がついたころには、父親が釣りが好きなこともあり、父親と一緒によく釣りなどに行って、夏には家族で海水浴や、シュノーケリングなど、潜って遊ぶことが普通だった玉木少年。小学校に入ってからも、放課後や休みの日には友達と釣りをするなど、海で遊ぶことが普通で、身近に海がある普通の少年の生活をしていた。ただし、マリンスポーツの何かに熱中するようなことはなかったようだ。しかし、小学校5年生のときに、突然、何を思ったのか、それまで釣りに没頭する日が続いていただけだった父親が、藤沢駅の目の前にあった丸井で、ウインドサーフィンのサーファー艇とリグ一色(当時の入門ベーシックセットで、今のウインドサーフィンの道具に比べると長くて、重くて、セッティングもかなり難しい道具一式)を買ってきた。ちょうどこのころの80年代はウインドサーフィンの全盛期で、1984年にはロサンゼルスオリンピックで初めてヨット種目のひとつとして「ボードセイリング」が登場し、日本国内でもウインドサーフィンが流行り始めたころだった。父親は、それまで全くウインドサーフィンなどしたことがなかったが、それ以来、釣りではなく、ウインドサーフィンに没頭する日が続いた。また、玉木少年も、何の抵抗もなく、そんなアグレッシブな父親の影響で、父親と一緒にウインドサーフィンをする日が続いていた。

 

<ウェイブボードとの出会い>

それまで父親と一緒に行っていた玉木少年も、中学1年生になると、一人で海まで通って、鎌倉の材木座にあるブルーピーターという艇庫に道具一式を置き、放課後や週末には、自転車で海まで通い、鎌倉の海で一生懸命にウインドサーフィンに明け暮れる日が続いていた。タックやジャイブなど、方向転換などがひと通りできるようになり、ある程度自分の意志で走れるようになると、周りでもサーファー艇ではなく、短くて速く、ジャンプや波乗りもできるウェイブボードというショートボードが増え始めていたこともあり、だんだんとそうしたショートボードが欲しくなってくる。そこで、ちょうど彼がウインドサーフィンを始めた1984年に同じ鎌倉の材木座で艇庫施設として始まり、鎌倉のレジェンドサーファーであり、レジェンドウインドサーファーでもある奥田悟氏が経営する「ロサンゼルスクラブ(通称L.Aクラブ)」に艇庫を移し、奥田氏のショートボードを借りて、ウインドサーフィンをするようになる。また、風がいつも吹いているわけでもないので、風がないときには、短いウェイブボードの前のストラップをはずし、後ろ足のストラップにはリーシュコードをつけて、サーフィンもしていた。そのころのウェイブボードはほぼサーフボードと同様のコンセプトで、形状も似ていたので、むしろサーフボードとして乗った方が調子が良かったこともあるという。

 

<フィジー10日間>

中学から高校まで、鎌倉の海でウインドサーフィンに明け暮れ、学校のクラブ活動よりもウインドサーフィンにハマリまくっていた彼は、大学に入ると、19歳でフィジーへ初めて行くこととなる。これは、当時、ウインドサーフィン月刊誌としてメジャーだった「Hi-Wind」という雑誌の中でフィジーの特集があり、それに憧れたことによるようだ。

彼は、迷うことなくボード(ナッシュカスタム)と1ピースのマスト(5mくらいある1本の物干しざおのような棒)とセイル2枚を持って、フィジーへ向かった。また、マジックアイランド(今のナモツ島)にも行ってみた。しかし、風はもちろん、波も半端なくパワーも高さもあり、ことごとくフィジーの海に圧倒されるだけの10日間だったようだ。でも、彼の心の中では、それがバネとなったのか、帰ってきてからは、さらにウインドサーフィンにハマることとなり、鎌倉の海だけではなく、冬になれば、日本のウインドサーフィンの聖地である御前崎や、北東風が強くなれば伊豆の海へ通うようになる。また、ほかの国内のウインドサーファーも行き始めていたハワイ・オアフ島のダイヤモンドヘッドにも毎年通うようになり、メキメキとスキルも上達していった。

 

<28歳のときにAUSデビュー>

大学を卒業してからは、就職をするものの、ウインドサーフィンの時間をもっと増やしたくなり、29歳のときに会社を辞めてオーストラリアのジェラルトンへ1年間のワーキングホリデーで行くこととなる。これも実は、国内専門誌である「Hi-Wind」の記事を見て影響されたようだ。ジェラルトンは、3日のうち2日は風が吹く場所としても有名で、海外からも多くのウインドサーファーが集まる場所で、彼もそうした環境の中で、ウインドサーフィン漬けの毎日が続いていた。また、現地では、テント生活をしたりして毎日海に入っていると、ローカルなどとも仲良くなり、シークレットポイントなども教えてもらい、極上の波や風を堪能していたようだ。また、こうした中で、彼はデカイ波にも徐々に慣れてきて、ビッグウェイバーへの仲間入りをすることとなる。

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<台風ライド>

オーストラリアから帰ってきてからは、プロウインドサーファーのトシ(柳沢利彦)と台風がくるたびに波が気になるようになり、デカイ波が立つところには、必ず彼がいるというほど、デカイ波を追うようになる。

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想い出に残っているのは、日本のビッグウェイバーの心の中にも今でもしっかりと残っていると思われる、2006年のTHE DAYとなった9月5日に日本へ強烈な東うねりを届けた台風12号「イオキ」だったという。「イオキ」は、もともと日付変更線の東側でハリケーンとなり、一時は米国で甚大な被害を出したハリケーン「カトリーナ」級にまで発達し、そのハリケーンが日付変更線を越えて台風となって西へ進んで、日本の東海上で進路を変えて北から北東へ進んでいった台風で、南鳥島などの気象庁職員や自衛隊員たちは全員非難し、日本への接近も恐れられていた。しかし、東海上で進路を変えて日本からは遠ざかって行ったので、一般的にはあまり大きなニュースにはなっていないが、この台風からの強烈な東うねりは、日本中でビッグウェイブとなり、仙台、千葉、伊豆、和歌山、四国など、東うねりをまともに受けるポイントでは、どこもビッグウェイバーの想い出のひとつとなるくらいのうねりとなっている。中でも、和歌山には、海外からロス・クラーク・ジョーンズが率いるRED BULL「TAIFU」チームが来日し、PWCを持ち込んで、ヘリまで飛ばして、その強烈な20ftを超えるうねりを責める世界のビッグウェイバーの様子が見れたことも記憶に残っている。

玉木氏も例外ではなく、この日、自分たちで買ったPWCを持ち込んで、伊豆で今まで見たこともないビッグウェイブをトゥーインで責めていたことが一番の想い出となっているという。その波の高さを聞いてみたが、あまりにもデカすぎて、サイズはわからないという。和歌山でも20ftを超える波と言われているので、それと同等レベルの波があったに違いない。

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<SUPとの出会い>

ウインドサーフィンやトゥーインでビッグウェイブを追い求めていた中で、彼は、やはり鎌倉の海で、L.Aクラブの奥田悟氏がSUP(スタンドアップパドルボーディング)をやっているのを見て、何でも興味を示す彼は、すぐに始めたようだ。ただし、その頃は、まだ今のような様々な専用のSUPのボードがあったわけではなかったので、もともとウインドサーフィンを始めたときのサーファー艇で、カヌー用のパドルを使ってやっていた。その後、徐々に専用のSUPが増え始め、デカイ波にはもともと慣れていた彼なので、波乗りのトレーニングも積んで、波乗り用のSUPボード等のスポンサーを受けるほどのレベルにもなった。

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<今後の夢>

最近では、子供が生まれてからはあまり海に出れる時間が少なくなってしまったので、コンディションをあまり選ばないSUPをやる時間が一番多いという。また、始めたころ、急激にレベルが上達し、2012年のNALUの大会で優勝はしているが、その後は上位に入るも優勝は無く、惜しい結果となっていることもあり、もう一度優勝したい、という願いを持っている。

また、自分が父親から受けた影響があるように、自分の子供たちにも、同じように海に関してはいろいろと伝えていきたいことがあり、さらには、子供たちに限らず、若い世代にも海の素晴らしさなどを伝えていくために、できる限りコンペなどにも参加するとともに、業界への協力などもしていきたいと言っている。

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また、今はSUPが流行り出してきている時期で、そうした時期で自分が一緒に過ごせることが魅力であり、刺激にもなるので、そういった意味でもSUPや海には感謝しているそうだ。

 

<自分の存在を消してのSUP>

最近、特に彼のホームポイントでもある湘南の鵠沼では、サーファーの数が多いこともあるが、SUPをやっていく上で、いつも心がけていることがあるという。それは、自分の存在をなるべく消しながら、海へ入ることを心がけているそうだ。どうしても道具が大きいことと、立って乗ることで、その存在が目立ってしまい、黙って入っていても、近くにサーファーがいれば、せっかくリラックスするために海に入っているサーファーへ無言のプレッシャーをかけることになり、それは絶対に避けなければならないことだという。また、レベルを上げることも重要だという。それは、技術的なことも当然だが、海へ何回も入り、経験を積み、そこの海でのルールやマナーを学んで、周りの状況を常に気にしながら入ることを身に着けていかないと、これはSUPに限らず何でも危険な場面を自分が作るきっかけになってしまう可能性があることを、常に理解しておく必要があるという。

ルールやマナーは、それぞれの心の中で理解していれば、みんながリラックスして、楽しく充実した海を過ごすことができるのではないかと信じていると言っていた。

インタビュー・写真:OCEANS MAGAZINE


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