TOYOTA JAPAN CUP 2016インタビュー(須長由季)
2016.02.05
今年の1月15日(金)~17日(日)にかけて、沖縄県八重山郡竹富町小浜島リゾナーレ小浜島にて開催された、JWA JAPAN TOUR 2015-16 SLALOM 第4戦の『TOYOTA JAPAN CUP 2016』のときの選手インタビューについて、これから数回にわたってご紹介したいと思います。
主にプロクラスに出場した選手のインタビューを行い、彼らが今回のレースについて、どのような準備をして、どのようなレース展開を行い、その結果どのような成績を収めることができたか、ということなどについてご紹介したいと思います。
まず初回は、プロウイメンズクラス優勝の須長由季選手のインタビューをご紹介致します。
まずは、すでにご存じの方も多いかとは思いますが、彼女は、下記のプロフィールをご覧になっていただいてもわかるとおり、2012年のロンドンオリンピックでは、RSX級の日本女子代表として出場したことは記憶に新しいと思います。
また、その前にも、ウインドサーフィンを大学で始めたばかりにも関わらず、新人戦でいきなり優勝したことを皮切りに、インカレでも2連覇を達成し、学生日本一の座を獲ったあとも、国内にとどまらず、アジアや世界でも活躍して、数々の輝かしい成績を残しています。
ウインドサーフィンでも輝かしい成績を残している彼女ですが、とても興味深いのは、大学卒業後には、同じ年齢で、セーリング界ではトップエリート女子選手と言われる近藤愛選手とペアを組み、470級でオリンピックを目指す、という経歴も残しています。おそらく彼女のレースに賭ける精神的な強さとセンス、そして、何よりも勝つことに対する強いこだわりが近藤選手の目に留まり、ペアを組むことになったのではないかと想像できます。
話が少しそれますが、その後近藤愛選手は、須長選手とペアを離れてからも、確実にその実力をつけていき、2006年には世界選手権で準優勝し、2007年には全日本470級ヨット選手権で史上初となる女子組の優勝を飾っています。さらには、海外での大会でも優勝を重ね、世界ランキング1位となり、須長選手がRSX級で出場したロンドンオリンピックには近藤愛選手も田畑和歌子選手とペアを組んで世界ランキング1位という成績で出場して、メダルに最も近い競技として注目されていました。
2012年5月に東京都北区にある味の素ナショナルトレーニングセンターにて開催された、ロンドンオリンピックにおけるセーリング競技の日本代表選手の記者会見では、近藤愛選手と揃って、RSX級女子代表として須長選手も参加しています。
(写真:K.OGAWA)
さて、その須長選手は、今までRSX級のトレーニングの一環として行っていたスラローム競技を昨年から本格的に始め、サーキットも回り始めるとともに、成績もぐんぐんと伸びていき、日々のトレーニングと持ち前の勝つことに対するこだわりが身を結び、ついに今年のTOYOTA JAPAN CUP 2016では、見事にプロウイメンズクラス優勝という輝かしい成績を残すこととなりました。
まず、今回の勝因について聞いてみましたが、実はあまり大会前のトレーニングは思うようにできておらず、それは、昨年の11月に参加したニューカレドニアでの世界大会のレース中に胸骨を骨折するというアクシデントに見舞われたからだそうです。
また、当然今年行われるリオオリンピックのRSX級の日本代表選考会にも照準を合わせていたこともあり、スラローム競技としての純粋なトレーニングは正直準備不足だったというところもあったようです。
ただし、代表選考会では惜しくも落ちてしまいましたが、その分スラローム競技に対する熱意は熱くなっていたことは事実で、あまり考えすぎずに、気負わずにレースに臨めたことが、かえって良かったのではないか、と本人は語っていました。
大会3日前からレース会場となる小浜島へ入り、連日続く強風の中を考えすぎることなく、とにかくレースに対して楽しんで臨もうという純粋な思いで、先輩たちからのアドバイスを忠実に聞き入れながら、トレーニングに励んでいたそうです。
しかし、いざ大会が始まると、初日は風速不足でまさかのキャンセル。
そして2日目も何とかレースはできたものの12~14ノットと、小浜島でそれまで乗っていた風とは大きく弱まり、レースとしては風が弱い中でのレースとなりました。
須長選手は、第1レースでは、予選ラウンドでは1位を獲ってファイナルへ進んだものの、セイルが7.8㎡とやはり小さく風が足りなかったのか、3位でフィニッシュ。
(第1レース予選ラウンド。ここから巻き返してトップフィニッシュでファイナルへ進出。セイルナンバー470が須長選手)
(第1レースのファイナル。セイルが小さくて風が足りないのか、3位でフィニッシュ)
そして、第2レースは若干風は上がってきてはいましたが、第1レースの反省をもとにセイルサイズを大きくして8.6㎡でレース海面へ向かうと、思ったよりも風が吹いていて多少オーバー気味という印象。
でも、それが功を奏したのか、予選ラウンドではオーバーセイル気味で少し手こずり、4位と振るわなかったものの、ファイナルへ進むとそれまでのオーバーセイルを武器に、スタートからトップを走り続け、最後まで突っ走ってトップでフィニッシュしていました。
(第2レースファイナル。このままトップでフィニッシュ)
後から聞くと、このときが、やはりとても気持ち良かったと言っていました。勝つことに対するこだわりもあり、セイルとボードのバランスが自分のものとなり、風や波、そして潮など自然のリズムと調和していれば、とても気持ち良く、なおかつレースでも気負うことなく勝てるということを、このときに感じたのかもしれません。
さて、最終日ですが、2日目までとはうって変わって、南寄りの風がかなり強まり、朝から20ノット以上の強風となっていました。
また時折強く降る雨にも悩まされ、視界がほとんど見えなくなるくらいのもの凄く強い雨によって、なかなかレースが始められない状況ではありましたが、須長選手を含む選手たちはみんなレースのモチベーションを落とさずにぐっと風や雨が落ち着いてくるのを待ち続け、午前10時30分頃にプロクラスの第3レースがスタートしました。
ウイメンズプロクラスもメンズプロクラスの後にスタートして、須長選手も予選ラウンドでは順調に大西富士子選手に続いて2位で通過してファイナルへ進みました。
(第3レースの予選ラウンド。順調に2位でフィニッシュしてファイナルへ進出)
ファイナルでは、強風の中を5.6㎡のセイルを使ってスタートから順調に飛び出し、途中までトップをキープしていましたが、後からぐんぐんと迫ってくる大西富士子選手の追い上げに最後は踏ん張ることができず、最後の最後でトップを奪われてしまっていました。
(第3レースファイナルでは、最終マークまでトップを維持するものの、マーク回航後、大西富士子選手に最後の最後で抜かれ、2位でフィニッシュ)
さずがにこうした強風の中でのレースということと、前日のレース展開が思ったよりもうまくいっていたこともあり、多少緊張して気負いしてしまった、という反省もあったようです。
でも、最後まで集中力を欠かすことなく、終始自分のペースでレース運びをすることができ、その結果、安定した成績で総合優勝をもぎ取ることができたのではないかと思います。
まだまだスラローム競技という世界においては、経験年数が少ないかもしれませんが、彼女の今までの経験や実績、そして精神力、何よりもレースにおけるセンスや持ち前の勝つことに対する強いこだわりがあれば、まだまだ伸びて行くことは間違いないと思われます。
彼女自身も、今年もさらにスラローム競技に対して真剣に本腰を入れてトレーニングを続け、できればサーキット「全戦優勝」して、海外でも活躍していきたい、と願っているようです。
良い成績を獲りたい、というのではなく、「優勝したい」「勝ち続けたい」という言葉が出るところあたりも、彼女の”勝ち”に対する強い想いが伝わってきます。
まだまだ成長し続け、活躍して、日本にとどまるような選手ではないという印象を持っている彼女なので、これからの活躍に非常に期待していきたいと思います。
文:OCEANS MAGAZINE
写真:HARRY
※TOYOTA JAPAN CUP 2016の全レースレポート、および全動画については以下をご覧ください。
http://oceansmagazine.net/feature/4946
<須長由季>
○プロフィール
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- 出身地:埼玉県
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- 身 長:171cm
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- 体 重:62kg
○経歴
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- 1999年 私立星野女子高等学校 卒業
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- 2003年 私立明治大学 卒業
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- 2003年 株式会社ミキハウス入社 競技部 兼 藤沢さいか屋店 勤務
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- 2009年 競技部 兼 横須賀さいか屋店 勤務
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- 2011年 競技部 兼 横須賀さいか屋店勤務 兼 東日本支社勤務
○戦歴
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- 2015年 世界選手権オマーン 27位
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- 2015年 ISAFセーリングワールドカップ イギリス大会 RS:X 女子 9位
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- 2012年 ロンドンオリンピック 21位
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- 2012年 世界選手権 27位(オリンピック内定)
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- 2011年 2011年度ナショナルチーム選考会 1位
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- 2011年 日本セーリング連盟ナショナルチーム選考会 RSX級 優勝
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- 2011年 世界選手権 33位(ロンドン五輪国枠獲得)
- 2010年 ヨーロッパ選手権 25位(日本人2位)
- 2010年 デルタロイドレガッタ(ISAFワールドカップシリーズ) 25位(日本人2位)
- 2010年 Sail for GOLD レガッタ(ISAFワールドカップシリーズ) 23位(日本人1位)
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- 2010年 RSXクラス 2010年世界選手権 33位(日本人2位)
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- 2010年 2010年アジア選手権 2位(日本人1位)
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- 2010年 2010年全日本選手権 1位
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- 2010年 Sail Melbourune(ISAFワールドカップシリーズ) 11位(日本人1位)
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- 2010年 全日本RSX選手権 RSX級 優勝
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- 2008年 世界選手権 RSX級 日本人3位
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- 2007年 世界セーリング連盟選手権 RSX級 北京五輪国枠獲得
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- 2006年 全日本フォーミュラー選手権 フォーミュラー級 優勝
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- 2005年 全日本ミストラル選手権 ミストラル級 6位
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- 2004年 世界選手権 470級 日本人3位
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- 2003年 日本セーリング連盟ナショナルチーム選考会 470級 3位
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- 2002年 全日本学生ボードセーリング選手権大会 ミストラル級 優勝
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- 2001年 全日本学生ボードセーリング選手権大会 ミストラル級 優勝
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- 2000年 全日本学生ボードセーリング選手権大会 ミストラル級 8位
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- 1999年 全日本学生ボードセーリング選手権大会 新人戦 ミストラル級 優勝
TOYOTA JAPAN CUP 2016無事終了
2016.01.18
1月15日(金)~17日(日)にかけて、沖縄県八重山郡竹富町小浜島リゾナーレ小浜島にて、JWA JAPAN TOUR 2015-16 SLALOM 第4戦の『TOYOTA JAPAN CUP 2016』が開催され、無事に終了しました。
そのときの大会レポート、動画です。
●大会初日
レポート
http://oceansmagazine.net/ogawa/4868
動画
https://www.youtube.com/watch?v=OrM7x3y2ZbM
●大会2日目
レポート
http://oceansmagazine.net/ogawa/4895
動画
https://www.youtube.com/watch?v=qcZYYI6IoVc
●大会3日目
レポート
http://oceansmagazine.net/ogawa/4928
動画
https://www.youtube.com/watch?v=WCEoJYwv4gE
●プロクラスリザルト
プロクラスヒート表
●オープンクラスリザルト
オープンクラスヒート表
年間ランキング
●プロクラス
●オープンクラス
※なお、現在(1/21現在)、低気圧の影響で荷物の運搬に遅れが出ています。
下記にご注意ください。
大会要項
<TOYOTA JAPAN CUP 2016大会概要>
大会名称: JWA JAPAN TOUR 2015-16 SLALOM 第4戦
TOYOTA JAPAN CUP 2016(トヨタジャパンカップ2016)
開催日程 2016年1月15日(金)、16日(土)17日(日)
開催場所 沖縄県八重山郡竹富町小浜島リゾナーレ小浜島海域
共同主催 NPO法人日本ウインドサーフィン協会(JWA)/TOYOTA JAPAN CUP実行委員会
特別協賛 トヨタ自動車株式会社
協賛 株式会社豊田自動織機、ダイハツ自動車工業株式会社、日野自動車株式会社、星野リゾート リゾナーレ小浜島、八重山観光フェリー株式会社、日本トランスオーシャン航空株式会社、株式会社ゴールドウイン、株式会社エスエムジェイ 他各社
後援 竹富町、竹富町観光協会、石垣市、石垣市観光交流協会
協力 八重山漁業協同組合、小浜公民館、細崎公民館、株式会社T&T、小浜ウインドクラブ、OCEANS MAGAZINE、隔月刊ハイウインド、有限会社オフィス アビーム
映像配信協力 パナソニック株式会社、ティースカイテクノロジー株式会社
TOYOTA JAPAN CUP 2016
2015.12.03
いよいよ1月15日(金)~17日(日)にかけて、沖縄県八重山郡竹富町小浜島リゾナーレ小浜島にて、JWA JAPAN TOUR 2015-16 SLALOM 第4戦の『TOYOTA JAPAN CUP 2016』が開催されます。
真冬に南国のウインドサーフィンのメッカ、小浜島にて開催されているこの大会には、全国のトッププロをはじめ、トップアマも集結する一大イベントとなっています。
★トヨタジャパンカップ2016大会参加選手専用荷物運搬スケジュール要項は以下をご覧ください。
http://oceansmagazine.net/ogawa/4342
★エントリー、荷物運搬、お弁当申し込みは下記からできます。
★以下で、今年1月に開催された前回の大会の様子が見れます。
http://oceansmagazine.net/ogawa/4281
<TOYOTA JAPAN CUP 2016大会概要>
大会名称: JWA JAPAN TOUR 2015-16 SLALOM 第4戦
TOYOTA JAPAN CUP 2016(トヨタジャパンカップ2016)
開催日程 2016年1月15日(金)、16日(土)17日(日)
開催場所 沖縄県八重山郡竹富町小浜島リゾナーレ小浜島海域
共同主催 NPO法人日本ウインドサーフィン協会(JWA)/TOYOTA JAPAN CUP実行委員会
特別協賛 トヨタ自動車株式会社
協賛 株式会社豊田自動織機、ダイハツ自動車工業株式会社、日野自動車株式会社、星野リゾート リゾナーレ小浜島、八重山観光フェリー株式会社、日本トランスオーシャン航空株式会社、株式会社ゴールドウイン、株式会社エスエムジェイ 他各社
後援 竹富町、竹富町観光協会、石垣市、石垣市観光交流協会
協力 八重山漁業協同組合、小浜公民館、細崎公民館、株式会社T&T、小浜ウインドクラブ、OCEANS MAGAZINE、隔月刊ハイウインド、有限会社オフィス アビーム
映像配信協力 パナソニック株式会社、ティースカイテクノロジー株式会社
1、規則
1,1 2013-2016セーリング競技規則(以下RRS)、付則BおよびJWAプロツアー規定
1,2 帆走指示書と各規則が矛盾する場合、帆走指示書を優先する。
2、広告
各艇は主催団体により提供された広告の表示要求をされる場合がある。
3、参加資格
3,1 JWAプロメンズクラスは、2015JWAプロ会員、JWAランキング会員、JWA一般会員、ユースジュニア会員であること。
注) プロクラスに参加するためには、「競技ライセンス」取得が必須となります。現段階では技術検定1級を「競技ライセ
ンス」と見なすので、1級を取得されていない方は早急に取得されることをお願いします。
取得方法に関してはhttp://www.jw-a.org/test/index.htmlを参照下さい。
または資格審査委員会事務局 shikaku_ml@jw-a.org TEL:046-873-4788 までお問い合わせ下さい。
3,2 オープンクラスは、2015JWA プロ会員以外のJWA会員、限る。詳しくは、http://www.jw-a.org/
3,3 自己及び第三者への賠償を補償できる保険に加入している選手。
4、競技種目
4, 1 スラローム(ダウンウインド)
4, 2 JWAプロメンズクラス/JWAプロウイメンズクラス/オープンクラス/オープンウイメンズクラス
(2015-16 JWAプロ会員していないランキング会員、一般会員は、プロとオープンクラスのダブルエントリー
可能また、プロウイメンズとオープンメンズクラスのダブルエントリー可能)
5、参加費
5, 1 プロクラス15,000円/オープンクラス12,000円/ダブルエントリー20,000円/
沖縄地域振興特別選手5.000円
5, 2 締め切り:2015年12月31日(木)デジエントリー申し込み入金分まで。
レイトエントリーは、2016年1月7日(木)デジエントリー申し込み入金分までとし、4,000円追加徴収。
5, 3 地元地域振興エントリー枠として、沖縄県内の在住アマチュア選手(プロ選手、元プロ選手を除く)は地域振
興特別割引エントリー費でオープンクラスに参加できる。
尚、プロクラスに参加する場合は別途通常と同じ手続きを踏まなければならない。
また、今大会のみ地域振興特別エントリー選手はオープンクラスに限り、2014-15JWA会員登録も必要なしで参
加できるものとする。
沖縄地域振興特別エントリー費 5.000円
- エントリー申し込み時に必ず沖縄県内住所を記入する事。
- セールナンバーはJWA登録ナンバーを優先とする。
6、日程
6、1 2016年1月15日(金)
8:00〜8:45 プロクラスレジストレーション
9:00 プロクラス開会式&セイラーズミーティング
10:30〜 プロクラス最初の予告信号予定時刻
2016年1月16日(土)
8:00〜8:45 オープンクラスレジストレーション
9:00 オープンクラス開会式&セイラーズミーティング
10:00 全クラス最初の予告信号予定時刻
19:00 ウエルカムパーティー(リゾナーレ小浜島)
2016年1月17日(日)
9:00 全クラスセイラーズミーティング
10:00 全クラス最初の予告信号予定時刻
15:30 表彰式&閉会式
- 天候などにより、スケジュールの変更あり。
- 特にプロクラスは1レースも成立していない場合、最終日の表彰式などスケジュール変更の可能性あり
7、帆走指示書
帆走指示書はJWA HP(http://www.jw-a.org/)よりダウンロードできる
8、レースエリア
添付1図は小浜島沖に設置されるおよそのレースエリアを示す。
9、コース
帆走すべきコースは当日公式掲示板にて掲示される
10、得点
10、1 レーシングにおける全体、1/2、1/4、1/8フリートそれぞれの得点は1位1ポイント、2位2ポイント、3位3ポイント、以下は順位がポイントとなる。カットされたレースを除いて得点の一番低い選手が1位となる。
10、2 本大会は最大レース数を7レースとし、1レース、もしくは1イリミネーションにおいて、男子決勝進出選手が選出された時点で男子が成立、女子決勝終了で女子が成立、そのどちらかが成立した時点で大会成立とする。レースが成立したときのカット数
1~3レースが成立した場合は全てのレースをカウントする。
4~6レースが成立した場合は最も得点の悪いレースポイントをカットする。
7レースが成立した場合は得点の悪い方から2つのレースポイントをカットする。
11賞
賞金: 総額2,000,000円
プロメンズクラス 1位 ¥600.000
2位 ¥300.000
3位 ¥240.000
4位 ¥180.000
5位 ¥140.000
6位 ¥100.000
7位 ¥ 60.000
8位 ¥ 20.000
プロウイメンズクラス 1位 ¥180.000
2位 ¥120.000
3位 ¥ 60.000
スラロームプロ登録選手以外が入賞した場合、同額の遠征補助金として支給する。
プロメンズクラス1位~8位/ (表彰は3位まで)
プロメンズクラスベストアマチュア賞1位~3位、
プロウイメンズクラス1位~3位/
プロウイメンズクラスベストアマチュア賞1位、
オープンメンズクラス1位~3位/
オープンウイメンズクラス1位
12、エキップメント
「JWA JAPAN PRO TOUR SLALOM規定23項の「スラローム6/3ルール」を適用する。」(オープンクラスはフルオープン)
http://www.jw-a.org/about/pdf/rule_slalom.pdf
14、安全
ライフジャケット着用を推奨とする
15、責任の否認
このレガッタの競技者は自分自身の責任で参加するため、主催者団体はレガッタの前後、期間中に生じた物理的損害、
身体障害、及び死亡事故などのいかなる責任も負わない。
16、問い合わせ
〒240-0112 神奈川県三浦郡葉山町堀内 1173-3 オフイスアビーム内
TOYOTA JAPAN CUP実行委員会事務局 TEL046-875-9899 FAX046-877-5441
E-mail abeam88@jcom.home.ne.jp
http://www.jw-a.org/
★宿泊に関して
大会参加選手、同伴者は星野リゾートのご協賛ご協力により、大会参加選手特別料金でリゾナーレ小浜島にご宿泊できます。ご予約は、下記の各自リゾナーレ小浜島大会参加者専用URLまで各自ご予約お願いします。
◎選手様向けプラン
https://booking.hoshinoresort.com/plans/JA/0000000012/0000000360
◎家族様向けプラン
https://booking.hoshinoresort.com/plans/JA/0000000012/0000000361
*エントリーと同時に大会期間中の昼食用お弁当の注文を同時受付します。ご希望者はデジエントリーで同時申し込み。
航空券お問い合わせ 日本トランスオーシャン航空株式会社 http://www.jal.co.jp/jta/
荷物の運搬に関して
関東、中部、関西、博多よりコンテナ便を準備
コンテナ集荷時間、場所は各会場調整中、 後日JWA HP、FBメールにて発表
- 荷物搬入日、関東は 2016年1月4日 搬入
- 中部、関西、九州地区は 2016年1月5日 搬入
- 荷物小浜島到着日 2016年1月12日を予定
- 別紙に詳細を明記、JWA HPなどにも掲載しますのでご確認ください。
- 運搬料金
関東、中部、関西から小浜島 片道¥15.000 往復¥20.000
九州から小浜島 片道¥8.000 往復¥16.000
自分が父から教わったことを、子供にも伝えていきたい。/玉木洋平
2015.11.16
玉木洋平(別名タマキング洋平)
1972年10月6日生まれ 43歳
<藤沢の丸井でサーファー艇を購入!>
神奈川県の鎌倉市にある鎌倉山で生まれ、物心がついたころには、父親が釣りが好きなこともあり、父親と一緒によく釣りなどに行って、夏には家族で海水浴や、シュノーケリングなど、潜って遊ぶことが普通だった玉木少年。小学校に入ってからも、放課後や休みの日には友達と釣りをするなど、海で遊ぶことが普通で、身近に海がある普通の少年の生活をしていた。ただし、マリンスポーツの何かに熱中するようなことはなかったようだ。しかし、小学校5年生のときに、突然、何を思ったのか、それまで釣りに没頭する日が続いていただけだった父親が、藤沢駅の目の前にあった丸井で、ウインドサーフィンのサーファー艇とリグ一色(当時の入門ベーシックセットで、今のウインドサーフィンの道具に比べると長くて、重くて、セッティングもかなり難しい道具一式)を買ってきた。ちょうどこのころの80年代はウインドサーフィンの全盛期で、1984年にはロサンゼルスオリンピックで初めてヨット種目のひとつとして「ボードセイリング」が登場し、日本国内でもウインドサーフィンが流行り始めたころだった。父親は、それまで全くウインドサーフィンなどしたことがなかったが、それ以来、釣りではなく、ウインドサーフィンに没頭する日が続いた。また、玉木少年も、何の抵抗もなく、そんなアグレッシブな父親の影響で、父親と一緒にウインドサーフィンをする日が続いていた。
<ウェイブボードとの出会い>
それまで父親と一緒に行っていた玉木少年も、中学1年生になると、一人で海まで通って、鎌倉の材木座にあるブルーピーターという艇庫に道具一式を置き、放課後や週末には、自転車で海まで通い、鎌倉の海で一生懸命にウインドサーフィンに明け暮れる日が続いていた。タックやジャイブなど、方向転換などがひと通りできるようになり、ある程度自分の意志で走れるようになると、周りでもサーファー艇ではなく、短くて速く、ジャンプや波乗りもできるウェイブボードというショートボードが増え始めていたこともあり、だんだんとそうしたショートボードが欲しくなってくる。そこで、ちょうど彼がウインドサーフィンを始めた1984年に同じ鎌倉の材木座で艇庫施設として始まり、鎌倉のレジェンドサーファーであり、レジェンドウインドサーファーでもある奥田悟氏が経営する「ロサンゼルスクラブ(通称L.Aクラブ)」に艇庫を移し、奥田氏のショートボードを借りて、ウインドサーフィンをするようになる。また、風がいつも吹いているわけでもないので、風がないときには、短いウェイブボードの前のストラップをはずし、後ろ足のストラップにはリーシュコードをつけて、サーフィンもしていた。そのころのウェイブボードはほぼサーフボードと同様のコンセプトで、形状も似ていたので、むしろサーフボードとして乗った方が調子が良かったこともあるという。
<フィジー10日間>
中学から高校まで、鎌倉の海でウインドサーフィンに明け暮れ、学校のクラブ活動よりもウインドサーフィンにハマリまくっていた彼は、大学に入ると、19歳でフィジーへ初めて行くこととなる。これは、当時、ウインドサーフィン月刊誌としてメジャーだった「Hi-Wind」という雑誌の中でフィジーの特集があり、それに憧れたことによるようだ。
彼は、迷うことなくボード(ナッシュカスタム)と1ピースのマスト(5mくらいある1本の物干しざおのような棒)とセイル2枚を持って、フィジーへ向かった。また、マジックアイランド(今のナモツ島)にも行ってみた。しかし、風はもちろん、波も半端なくパワーも高さもあり、ことごとくフィジーの海に圧倒されるだけの10日間だったようだ。でも、彼の心の中では、それがバネとなったのか、帰ってきてからは、さらにウインドサーフィンにハマることとなり、鎌倉の海だけではなく、冬になれば、日本のウインドサーフィンの聖地である御前崎や、北東風が強くなれば伊豆の海へ通うようになる。また、ほかの国内のウインドサーファーも行き始めていたハワイ・オアフ島のダイヤモンドヘッドにも毎年通うようになり、メキメキとスキルも上達していった。
<28歳のときにAUSデビュー>
大学を卒業してからは、就職をするものの、ウインドサーフィンの時間をもっと増やしたくなり、29歳のときに会社を辞めてオーストラリアのジェラルトンへ1年間のワーキングホリデーで行くこととなる。これも実は、国内専門誌である「Hi-Wind」の記事を見て影響されたようだ。ジェラルトンは、3日のうち2日は風が吹く場所としても有名で、海外からも多くのウインドサーファーが集まる場所で、彼もそうした環境の中で、ウインドサーフィン漬けの毎日が続いていた。また、現地では、テント生活をしたりして毎日海に入っていると、ローカルなどとも仲良くなり、シークレットポイントなども教えてもらい、極上の波や風を堪能していたようだ。また、こうした中で、彼はデカイ波にも徐々に慣れてきて、ビッグウェイバーへの仲間入りをすることとなる。
<台風ライド>
オーストラリアから帰ってきてからは、プロウインドサーファーのトシ(柳沢利彦)と台風がくるたびに波が気になるようになり、デカイ波が立つところには、必ず彼がいるというほど、デカイ波を追うようになる。
想い出に残っているのは、日本のビッグウェイバーの心の中にも今でもしっかりと残っていると思われる、2006年のTHE DAYとなった9月5日に日本へ強烈な東うねりを届けた台風12号「イオキ」だったという。「イオキ」は、もともと日付変更線の東側でハリケーンとなり、一時は米国で甚大な被害を出したハリケーン「カトリーナ」級にまで発達し、そのハリケーンが日付変更線を越えて台風となって西へ進んで、日本の東海上で進路を変えて北から北東へ進んでいった台風で、南鳥島などの気象庁職員や自衛隊員たちは全員非難し、日本への接近も恐れられていた。しかし、東海上で進路を変えて日本からは遠ざかって行ったので、一般的にはあまり大きなニュースにはなっていないが、この台風からの強烈な東うねりは、日本中でビッグウェイブとなり、仙台、千葉、伊豆、和歌山、四国など、東うねりをまともに受けるポイントでは、どこもビッグウェイバーの想い出のひとつとなるくらいのうねりとなっている。中でも、和歌山には、海外からロス・クラーク・ジョーンズが率いるRED BULL「TAIFU」チームが来日し、PWCを持ち込んで、ヘリまで飛ばして、その強烈な20ftを超えるうねりを責める世界のビッグウェイバーの様子が見れたことも記憶に残っている。
玉木氏も例外ではなく、この日、自分たちで買ったPWCを持ち込んで、伊豆で今まで見たこともないビッグウェイブをトゥーインで責めていたことが一番の想い出となっているという。その波の高さを聞いてみたが、あまりにもデカすぎて、サイズはわからないという。和歌山でも20ftを超える波と言われているので、それと同等レベルの波があったに違いない。
<SUPとの出会い>
ウインドサーフィンやトゥーインでビッグウェイブを追い求めていた中で、彼は、やはり鎌倉の海で、L.Aクラブの奥田悟氏がSUP(スタンドアップパドルボーディング)をやっているのを見て、何でも興味を示す彼は、すぐに始めたようだ。ただし、その頃は、まだ今のような様々な専用のSUPのボードがあったわけではなかったので、もともとウインドサーフィンを始めたときのサーファー艇で、カヌー用のパドルを使ってやっていた。その後、徐々に専用のSUPが増え始め、デカイ波にはもともと慣れていた彼なので、波乗りのトレーニングも積んで、波乗り用のSUPボード等のスポンサーを受けるほどのレベルにもなった。
<今後の夢>
最近では、子供が生まれてからはあまり海に出れる時間が少なくなってしまったので、コンディションをあまり選ばないSUPをやる時間が一番多いという。また、始めたころ、急激にレベルが上達し、2012年のNALUの大会で優勝はしているが、その後は上位に入るも優勝は無く、惜しい結果となっていることもあり、もう一度優勝したい、という願いを持っている。
また、自分が父親から受けた影響があるように、自分の子供たちにも、同じように海に関してはいろいろと伝えていきたいことがあり、さらには、子供たちに限らず、若い世代にも海の素晴らしさなどを伝えていくために、できる限りコンペなどにも参加するとともに、業界への協力などもしていきたいと言っている。
また、今はSUPが流行り出してきている時期で、そうした時期で自分が一緒に過ごせることが魅力であり、刺激にもなるので、そういった意味でもSUPや海には感謝しているそうだ。
<自分の存在を消してのSUP>
最近、特に彼のホームポイントでもある湘南の鵠沼では、サーファーの数が多いこともあるが、SUPをやっていく上で、いつも心がけていることがあるという。それは、自分の存在をなるべく消しながら、海へ入ることを心がけているそうだ。どうしても道具が大きいことと、立って乗ることで、その存在が目立ってしまい、黙って入っていても、近くにサーファーがいれば、せっかくリラックスするために海に入っているサーファーへ無言のプレッシャーをかけることになり、それは絶対に避けなければならないことだという。また、レベルを上げることも重要だという。それは、技術的なことも当然だが、海へ何回も入り、経験を積み、そこの海でのルールやマナーを学んで、周りの状況を常に気にしながら入ることを身に着けていかないと、これはSUPに限らず何でも危険な場面を自分が作るきっかけになってしまう可能性があることを、常に理解しておく必要があるという。
ルールやマナーは、それぞれの心の中で理解していれば、みんながリラックスして、楽しく充実した海を過ごすことができるのではないかと信じていると言っていた。
インタビュー・写真:OCEANS MAGAZINE
まだ夢の途中です!/KAI LENNY
2015.09.11
先日、9月4日(金)~6日(日)にかけて、神奈川県の湘南、葉山港、および逗子海岸周辺にて開催されたSUPの世界最高峰の大会である、WATERMAN LEAGUE WORLD SERIES 「Victoria Cup HAYAMA PRO」の余韻はまだ残っている人も少なくないと思う。
それは、劇的なドラマで幕を閉じたことで、その最後のシーンが頭に焼き付いたからだ。
その劇的なドラマの中心となったのは、SUP界でのヒーローであり、世界チャンピオンでもあるハワイ出身のKAI LENNYだ。
彼は、ロングディンスタンスでは惜しくも同じハワイ出身のCONNOR BAXTERに敗れ、2位となったが、その後のスプリントトーナメントにおいて、ファイナルで、スタート直後はCONNORとCASPERに次いで3位だったのが、CONNORとCASPERがすぐ前で競い合っているすきを狙って最後の最後のコースで逆転し、見事に優勝してしまったのだ。
会場となった逗子海岸では、KAIのその逆転劇に興奮し、しばらくギャラリーは放心状態となっていたのも覚えている。
また、ロングディスタンスとスプリントトーナメントとの総合でトータルポイントで1位となり、見事に総合優勝を飾ったのだ。
最後の逆転劇について聞いてみたら、彼はこう語っていた。
「CONNORやCASPERは優れたレーサーだし、簡単に抜くことはできないことはわかっていた。でも、前でその二人が競い合っていたのも見えていたし、過去のレースで彼らの走りや抜き方などもわかってきていたので、一瞬のすきを見て、勝負に出てみたら、幸運にも抜けることができて良かった。」
このできすぎたストーリーに誰もが感動し、歴史に残る大会となったと思う。
でも、これが世界の大会であり、何があるかわからないのが、レースだと思う。
今回はKAI LENNYを中心とした大会だった雰囲気は隠せないが、ほかにもCONNOR BAXTERや、2014年のWORLD SERIESヨーロッパチャンピオンのデンマーク出身ZANE SCHWEITZER、今年のヨーロッパ・ランキング1位をキープしているデンマーク出身のCASPER STEINFATH、昨年の日本でのチャレンジシリーズで優勝したMO FREITASなど、素晴らしい世界的な選手が多く来日し、彼らがいたからこそ、この素晴らしい大会が開けたことを感謝したいと思う。
3kmオープンレース前にギャラリーの犬と戯れるZANE SCHWEITZER
3kmオープンレース前にインタビューを受けるCONNOR BAXTER
ところで、KAI LENNYは、前回に日本に来たのは17歳のころで、湘南の某シークレット・ポイントでSUPサーフィンをして、そのハイレベルなテクニックを日本で披露し、まだSUPがあまりメジャーではなかったころに、周りのウインドサーファーやサーファーたちは、それを目の当たりにして、その衝撃を隠せず、一瞬にして若干17歳の少年の虜にされてしまったのは事実だろう。
そんな彼が、今回のVictoria Cup HAYAMA PROにて、見事に総合優勝してしまったのだ。それも、劇的な逆転劇で。
今回は彼にインタビューしたので、その内容についてご紹介しましょう。
彼は、1992年10月8日生まれで、今年で23歳になるが、まだ今の時点(2015年9月時点)ではギリギリ22歳だ。
ハワイのマウイ島で生まれ、周りを海に囲まれ、海が大好きだった両親のもとですくすくと育っていった。
初めて海に入ったのはもう覚えていないということだが、サーフィンを始めたのはおそらく4歳のころだったという。
また、その後、6歳にはウインドサーフィンを、7歳にしてSUPを、9歳の時にはすでにカイトサーフィンやトゥインサーフィンを始めていたという。
また、ウインドサーフィンを始め、メキメキと頭角をあらわしてきたのもロビーナッシュという、ウインドサーフィン界ではすでに神様の域に入っているという存在が身近にいたからで、そのロビーに全てを教わり、ロビーがいたからこそ、今の自分がいると言っても過言ではないと語っている。それだけロビーからの影響がかなり大きいようだ。
まだ12~13歳のころには、伝統あるハワイのウインドサーフィンのウェイブコンテストであるアロハクラシックにキッズクラスで出場していたようだが、そのころはまだマストハイの波に粉々にされていたようだ。でも、わずか半年後には、そのウインドサーフィンの聖地ホキーパで平然とリッピングを決め、大人たちと混じって、その年齢を思わせないマニューバーを描いていたという。
ウインドサーフィン専門誌HI-WINDの2010年2月号バックナンバーより
http://www.hi-wind.net/magazine/10/1002.html
そして17歳にしてあの大波で世界的に有名なJAWSをメイク。
生れたときからの環境もそうだが、彼の素質と才能をロビーナッシュという世界的なレジェンドウインドサーファーが見出し、その才能に気づくか気づかないうちに自分でその才能を開花させ、さらに周りの両親やスポンサーからのサポートも受けながら、今日に至っているようだ。
とても恵まれた環境で育ってきていることは否定できないが、裏では彼なりの努力もしているようだ。
普段はトレーニングは4週間に一度ハードなトレーニングをしているようで、大会と大会の間にはジムへ行ったり、ランニング、スイミング、自転車などを取り入れながら、毎日のトレーニングを欠かさず続けている。
また、当然、SUPはもちろん、サーフィンやウインドサーフィン、カイトなどもそれぞれのトレーニングになるので、相乗効果もあり、欠かさないという。
大会では当然悔しい思いもして、10代のころには周りの大人たちにも怒られながら人知れず涙していたこともあるに違いない。でも、そこでさらにそれをバネにしてここまできているのも事実だろうし、それができたのも、周りの環境をそうなるように自分で作ってきたということも言えるだろう。
若くしてここまでできる人間はそういないと思う。きっとどこかで傲慢になり、恵まれた環境に気づかないうちに、できなくなると辞めてしまったり、周りのせいにしてしまう人もいると思うし、たとえ続けていたとしても、年を重ね、大会で勝てなくなったときにそれに気づいてもすでに遅い。でも、KAIの場合には、十分にそれを理解し、周りへの配慮を一番に考え、いつも忘れていないように思えた。
SUP界において、WATERMAN LEAGUE WORLD TOURでは、2010年(17歳~18歳のとき)から年間チャンピオン(2012年だけ3位)を毎年達成し、その実績はすでに誰もが認めるところまで来ている。
この先、どこまでそのタイトルを続けられるか、これからが楽しみだ。また、人間としての成長もとても楽しみだ。
あと、彼はSUPだけに限らず、ウインドサーフィンでも、カイトサーフィンでも、その実力は発揮し、何でもこなす真のウォーターマンとして、君臨している。
でも、彼の中では、まだそれは夢の途中だという。
近い目標としては、まずは今年のSUPのタイトルを、ウェイブとレーシングで取ることが目標だが、その先には、ウインドサーフィン、カイトサーフィン、サーフィン、トゥーインサーフィンと、どれも誰もが認める世界のトップの存在となり、いつかロビーナッシュのようになりたい、というのが彼の中のゴールのようだ。
つまり、実力は当然のことながら、人間としてもっともっと成長していきたい、ということなのだろう。
今回の日本での大会について最後に聞いてみたが、日本の雰囲気はとても良く、悪いと思わせるような人は一人もいなかったという。
また、今回のロングディスタンスのコースについても、アップウインドやダウンウインドが長くとってあったが、それも逗子湾の中や、さらにその沖合までと続き、とてもバラエティに富んだコースだったので、面白かったという。
彼自身もいろいろなコースがあった方が、誰にでもチャンスが訪れやすいので好きだと言っていた。
大会の次の日には、すぐに千葉へ行って、台風17号からの東寄りのうねりが反応しだしていたこともあり、リラックスしてサーフィンやSUPサーフィンを楽しんでいた。
KAIと一緒に来ていた同じTEAM NAISHのNOA GINELLA。
彼はビッグウェイバーでもあり、レースボードでチューブに入ってしまうほどの腕の持ち主。
KAIやNOAと一緒のファンセッションをした阿出川潤さん。
今回のコーディネイトありがとうございます!
阿出川潤さんの際どいリッピング!
KAIやNOA、そして潤さんがいると聞いてわざわざきてくれた我らが日本の本橋政浩。
ただし、彼はいつも笑顔を絶やさず、プライベートな時間の間でも、ギャラリーたちに対してはとても紳士的で優しい一面を見せ、スターとしてファンが常に増えていくことが納得できた瞬間でもあった。
次には9月26日から、カリフォルニアのハンティントンビーチで開催される、US OPEN of Stand Up Paddlingがあるが、そこでも彼の実力が発揮されることと思う。
詳しくは、以下のサイトにて。
http://watermanleague.com/events-cat/stand-up-world-tour#
みんなでこれからも彼のことを応援していきましょう!
取材協力:
NAISH JAPAN
TED’S OCEAN SPOTRTS
取材記事・PHOTO:OCEANS MAGAZINE
白畑瞬/カヌーというパドルスポーツを通して、島の歴史を見つめ直すとともに、子どもから大人に至るまで、いろいろな人にそれらを伝えていきたい
2015.06.04
白畑瞬(しらはたしゅん)
オーシャンアスリート
生れも育ちも奄美大島。
現在は、アマニコガイドサービス代表
https://www.facebook.com/shun.shirahata/about
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「かぬーに出会ったきっかけ」
17歳のときに、実兄と一緒に夜中に遊び半分でカヌーで夜のマングローブ探検に出たのがシーカヤックに乗ったのが初めて。
それまでは、ぜんそくとアトピーで海に入ることはあまり好まず、また、学生時代も特にこれといってやることもなく、自然はもともと好きだったが、とくに自然の中や海で遊ぶのが好きというわけでもなく、ましてやカヌーなどとの関わりもなかった。
ただし、この実兄とのシーカヤックの経験で、そのシーカヤックの面白さと、夜中に見たシーカヤックからの星に感動を覚えた。
でも、その後は特にシーカヤックにのめり込むことはなかったのだが、船大工のところでバイトをしていた頃、シーカヤックの修理がたまたま入り、そのシーカヤックに乗ったことにより、海から島を見たときに、島から島へ渡っていた先人たちと同じ光景を自分が見ることができる、この素晴らしいスポーツにやっと出会えた、ということから、シーカヤックに完全にのめり込むことになる。
「本格的なカヌーガイド会社を立ち上げる」
それがきっかけで、19歳~26歳までは、奄美大島でマングローブのカヌーによるガイドが有名な黒潮の森マングローブパークで、カヌーによるガイドを始める。
ただし、その後、カヌーによるナイトマングローブツアーを提案するも、なかなか実現することができず、ついに26歳のときに独立して、本格的なカヌーのガイド会社を立ち上げ、念願だったマングローブナイトツアーも初め、現在に至る。
このマングローブナイトツアーは、自分も経験させていただいたが、鏡のようのツルっとした海面の上をゆっくりとアウトリガーカヌーで進み、全く音のない世界の中で、カヌーを漕ぐパドルの音だけが響き渡り、さらには上を見上げれば、散りばめられた多くの星が広がっていて、海面にもその星や月が映り、こうした経験はなかなか言葉では表せられないほどの感動を味わうことができる。
彼は、この感動をもっと多くの方に知ってもらいたいと、日々ナイトツアーを年中行っている。ただし、このツアーはいつでもできるというわけではなく、天気や風などのその日のコンディションと、潮の動きなどがうまく合わないと、なかなかできないので、それによってさらにツアーができたときの感動は膨らむと思う。また、このナイトツアーは、お客は一切漕ぐことは無く、何もやらずに、ただカヌーに乗って星や周りのマングローブを見ていればよく、彼がいろいろな解説を加えながら漕いでくれ、また、とても良いタイミングでコーヒーも飲ませてくれるので、これ以上の贅沢はないと思う。
「沖縄~奄美単独カヌー横断達成」
その後、昨年の2014年には、奄美人としての誇りを再確認するため、そして、復帰60周年という機会に、それまでの自分の夢でもあった沖縄~奄美間を単独でアウトリガーカヌーにて横断を成功させる。
これは、決して冒険ではなく、自分の島までカヌーで渡ることにより、奄美人としての誇りをもう一度呼び起こしたいという強い願いによるものだった。
「海の安全にも高い意識を持つ」
また、彼は、22歳のときに、ライフセービングの資格を自ら取得し、島の安全にも貢献することになる。ただし、このときはまだ自分のやりたいことと周りの環境とのバランスがうまくとれず、形にすることができないままだったが、その後にある人のきっかけで、もう一度島の安全に貢献することを形にするべく、奄美ライフセービングクラブを立ち上げ、自分も副代表として活動している。
「今後の夢」
今後は、島で海をいつでも楽しめ、親しめる環境づくりをしていきたいという願いを持ち、また、カヌーというパドルスポーツを通して、島の歴史を見つめ直すとともに、子どもから大人に至るまで、いろいろな人にそれらを伝えていきたいという目標を持っている。
今年2015年は5月に行われたハワイで最も過酷と言われるモロカイレースにサーフスキー部門で出場し、納得のいく結果を出すために、日々トレーニングを続け、見事に完走を果たしている。
また、そうした経験を数多く重ね、将来的には、アウトリガーカヌーで島から島へ渡るという、もともとの夢を実現するべく、これからも生涯続けてパドルスポーツを続けていく。
白畑瞬ブログ
“奄美から世界の海へ”
http://amanico.amamin.jp/e522492.html
白畑瞬facebook
https://www.facebook.com/shun.shirahata/about
金子ケニー/本気の日本人がいることを世界に証明したい。 そして、海をもっと知ってもらい、海洋民族であった日本人としての誇りを取り戻したい。
2015.04.09
<カリフォルニアでの10年間が基礎となる>
金子ケニー、1988年1月21日生まれ 27歳。
8歳までは湘南の茅ヶ崎で生まれ育ち、そのころは遊びでたまにサーフィンはしていたが、本気で海で遊ぶことはなく、むしろ海で遊ぶことを嫌っていたケニー。その後、父親(デューク金子)の仕事の関係でカリフォルニア州アーバインへ移住し、そこから彼の人生が変わり始める。
家は海から15分という好立地にあり、小学校6年生のころには、すでにサーフィンは
当たり前で、ジュニアライフセービングクラブで海の基本を学び、自然と海との関わり方を身につけていく。また、水泳も初め、カリフォルニア州アーバイン代表にもなる。
また、高校に入るとサッカーに夢中になり、クラブチームに入ると、その頭角を現すようになり、カリフォルニア州代表や、アメリカ代表選手となり、米国内や海外を転戦し、やがてプロを目指すようになる。ただし、サッカーのトレーニングの合間を見て、3か月ごとに部活を選べる高校では、水泳や競泳などのトレーニングにも励み、週末は父親の影響でカヌーをこのころから漕ぎ始める。高校3年生のころに日本(湘南茅ヶ崎)へ帰ってきても、サッカーの才能を認められ、東京ベルディ・ユースに所属し、サッカーに明け暮れていた。
しかし、ここで彼の転機が訪れる。
<彼の転機が訪れる>
東京ベルディ・ユースでサッカーのトレーニング中にヒザの前十字靭帯を痛めてしまい、それまで、このままいけばプロサッカー選手も夢ではなく、むしろその夢はもうすぐ目の前まで迫っていたときに、突然プロへの道が閉ざされてしまう。怪我が治るまでの時間を考えると、プロへの道はまた遠ざかり、そのころ高校卒業と同時にプロサッカー選手になる選手も多かったので、年齢のことを考えると、大きな決断をせざるを得ない状況となっていた。その後、相当悩んだあげく、彼は大学への進学を選び、国際基督教大学へ進む。
大学に入ってからは、カリフォルニアで楽しみ、身につけていた海での生活やライフスタイルが忘れられず、サーフィンをするようにはなっていたが、カリフォルニアに比べると、波があまりないことと、サーフポイントには人も多く、かえってストレスがたまり、これは自分が求めているライフスタイルを描くことができないと判断。そして彼が考えたのは、カヌーなら、沖に出てしまえば人もいなく、波もあまり関係なく、ストレス解消にもなり、カリフォルニアと同じような大海原を自由に漕ぐことができるので、これこそ自分が求めているものかも、と確信する。そこで父親の乗っていたOC6(6人乗りのアウトリガーカヌー)に乗り始め、その楽しさにどんどんとハマリ始める。また、OC6に乗ると同時に、OC1(1人乗りのアウトリガーカヌー)にも乗り始め、漕ぐことの楽しさと同時にその奥深さにも魅力を感じ始め、そこから彼の海への関わり方が固まり始める。
改めて世界のアウトリガーカヌーを見てみると、たとえばハワイのカヌーなど、パドリング競技をやっている人は、プロサーファーも多く、大会に向けてトレーニングしていることも少なくない。そして、そこから波や風、潮などを見る目を養い、サーフィンやウインドサーフィン、ボディサーフィンなどに生かしている人も少なくない。考えてみれば、ハワイやオーストラリアでは、あえてサーフィン、ウインドサーフィン、ヨット、アウトリガーカヌーなどとそれぞれ分けて考える習慣があまりなく、その日のコンディションに合わせて、自然とそのスポーツを楽しみ、全ては海との関わり方、そして海との共存、自然との調和を、生まれたころから身についていることが言える。それを教えてくれるのは、アウトリガーカヌーなのかもしれない。彼は、それに気がつき、もっともっと海を知り、海との調和を求め、自然の中に身を置くことにより、いろいろなことが見えてきて、いろいろなことを教えてもらえるという、そうした素晴らしさに気が付いていたのだと思う。
<結果を残すことによって海を知ってもらうきっかけになったら良い>
OC1を漕ぐようになって、彼は世界大会で結果を残し、日本人でも海のアスリートがいて、世界で戦える本気の日本人がいることを証明したい、と思うようになる。サッカーや野球は、日本人が世界に認められるところまで来ているが、海の世界では、それまで、確かに海で戦える日本人がいたことはいたが、なかなかそのあとが続いていなかったことは否定できない。今でも世界に出て行く日本人もいるが、経済的な理由や環境面などで、断念してしまう人も少なくないと思う。また、最近では、かなり世界に近くなってきているとしても、世界の壁がまだまだ大きいのは事実だと思う。彼は、そうした中で、本気の日本人がいることを証明したいと強く思っている。
モロカイ島からオアフ島までの42マイル(約67km)をカヌーで漕ぐ世界で最も伝統的で過酷なレースと言われる、モロカイ海峡横断レース「MOLOKA’I HOE」に、彼は今年で5回目の出場を予定している。過去の4回の戦いでは、毎回順位を上げ、昨年は日本人最高位の16位という結果を残している。彼は、経験とスキルが最も重要とされているこのレースにおいて、30代がもっとも結果を残しやすいと考え、それに向けて着々と前に突き進んでいる。
<SUPへの挑戦>
彼は、ちょうど2年前に、カヌーでの実績や実力をかわれ、ある人からSUPレースへの挑戦を誘われる。海を漕ぐという意味ではそんなに抵抗はなく、むしろ、そのころ本格的なパドラーがまだレース界にはいなかったこともあり、その挑戦を選んだ、パドルの基本的な漕ぎ方を知っている彼にとって、SUPレースは、カヌーレースでのトレーニングの成果を発揮する良いチャンスでもあり、また、その手ごたえも十分にあったので、カヌーと同様に世界への挑戦がすぐに想像できた。
彼の言葉通り、2年目にして、アジアで初めて開催されたSUP世界大会の前哨戦でもある、茅ヶ崎にて昨年開催された国際スタンドアップパドルレース「ウォーターマンリーグチャレンジシリーズ・湘南茅ヶ崎プロ」に出場し、世界の強豪の中で堂々とファイナルへ進出。そして、日本人最高位を記録している。また、その後、SUP全日本選手権大会では、見事に優勝という結果を残し、日本代表として、今年5月にメキシコで開催されるISA SUP世界選手権大会への出場権を手に入れている。
ただ、彼の言葉の中には“満足”という文字はない。国内でトップをとることを目標にしてきているわけではなく、あくまでも彼が目指すものは世界での結果であり、それもそれが最終目標ではなく、目指しているものは、世界の中で本気で海で戦える日本人がいることの証明と、それによって世の中の注目度を高め、日本人という海洋民族としての誇りをよみがえらせ、海をもっと広く知ってもらいたい、という願いに向けた途中経過にすぎないのだ。
<これからの夢>
彼は、今年でSUPを始めて3年目を迎える。この3年目にして、世界での表彰台を目指している。また、もともと彼の原点でもあるアウトリガーカヌーのOC1でも、世界で最も過酷と言われているモロカイ海峡横断レースでのTOP5、そして優勝を本気で目指している。また、その手ごたえも十分に感じている。
カヌーは、漕ぐたびに水の感覚を感じることができ、海を感じられる素晴らしいスポーツだと言う。これは、カヌーをやったことのある人ならみんな感じているのかもしれない。彼は、アスリートとして優れている以上に、人間として、海とどう関わったら良いか、また、日本人としてどう海と向き合えば良いのかを日々模索しつつも、少しずつその方向性が見えてきているのだと思う。
今年は戦後70年という節目を表現するために、葉山から沖縄までのパドルリレーを企画、予定しているという。これは、3~4人でアウトリガーカヌーを漕いでいくものだが、場所や日程によって交替で漕いでいくもので、自分たちでというよりは、パドラー、もしくはそれを経験してみたい人も含め、みんなで海を漕いで、渡って、もともと日本人として持っていた海洋民族としての魂や誇りをみんなで感じながら沖縄を目指していく、というものだ。もちろん、そこにはチャレンジとか冒険とかなどという文字は無く、ただ海を漕いで渡っていく、というシンプルなものだ。
最後に、彼は常に海をもっと知ってもらい、海の素晴らしさや奥深さ、そして本当の海の姿を伝えていけたらと言っている。そして、「Aloha Spirit」をいつも忘れずに、感じ続けながら海と向き合って欲しいと語っている。
今後の彼の活動を応援したいと思います。
彼の活動を見るには、以下をアクセスしてみてください。
ケニー金子のオフィシャルブログ:http://ameblo.jp/kenny-kaneko/
また、今年5月に開催されるメキシコでのISA SUP世界大会へのケニー金子の挑戦をみんなで応援するプロジェクトがあります。
詳しくは、https://cf.sportie.jp/sportie/projects/966-2015-5-isa-sup